燃え尽き症候群による教職員の休職が全国的に激増する中、2005年に築100年の古民家を借りて開設されたのが沢田の杖塾です。そのため、杖塾には「教職員の駆け込み寺」としての役割があります。これに加えて開設以来、教職員以外の青少年やその保護者の相談機関としての役割の一端も担ってきました。
この場の名称を塾と名づけたのは、個人面接(カウンセリング)を行うだけでなく、互いに人として成長できるようなグループづくりの場にもなることを願ったからです。そのため、参加者の主体性を重視したワークショップ(人間関係の体験型講座)を実施し、ホンネや弱みをも安心して語り合えるような、安心と安全感に満ちた場づくりに努めてきました。青少年や大人が育ちあう場づくりです。
杖塾で15年間続いている毎月1回開催の「教職員を支える会」や「杖塾例会」(=エンカウンターグループ)がそれです。塾の行事に参加のみなさんには、このような設立運営の趣旨を踏まえ、杖塾における良い空気づくりにご協力いただきますようお願い申し上げます。
沢田の杖塾 主宰 森口 章
杖(つえ)~杖の由来~
「私は自分の役割を、杖(つえ)のようなものと思うとるんよ!」と、退職を一年後にひかえた養護教諭の先生がこう述懐されます。
「それも、あなたが登山で使っているステッキのような、あんな立派なものと違うよ。山登りの途中で拾って、山から降りたらポンと捨てられてしまう棒切れのような杖が私なんよ。じゃから、卒業式のときに挨拶やお礼に来なくて当たり前、卒業しても、あんな杖の世話になったなあと思い出すことくらいはあるかもしれんけど、そんなもんでエエと思うようにしとるんよ」
私は先生が自分の命を削る思いで、生徒たちの苦しみを支えてこられたことを知っています。それだけに、「私は杖」の言葉をとても重みのある言葉として感じているのです。
歳のせいか物忘れが多くなった私は、時々、山登りで杖を忘れそうになります。一時間や二時間で登れる山なら良いのですが、5時間以上も歩く山で、しかも悪路を歩く時、やはり杖は必要です。浮き石を踏んでバランスを失いそうになったとき、雨に濡れた岩の上を恐る恐る歩くとき、いつも杖は私を支えてくれるのです。 …さりげなく。そして目立たずひかえめに…。しかし、急な崖や坂道を下るときの杖はもう必需品と言っても過言ではありません。お尻を地面にくっつけて、杖でバランスをとりながら足を進めていくのです。傾斜のきつい雪渓を横切るとき、杖は3本目の足と呼んでも良いほどの役割を果たしてくれます。
「たかが杖……。でも……、されど杖と言いたいものだよねえ」と、私は先生に言いました。
「そうなのよ。たかが杖なんよ!……一生その生徒を支えられるわけないもの。…歩くのは生徒の自力…それを無視して支えるとしたら、支えがなくては生きられない人間を育てることになってしまう。だからそれは絶対してはいけないことだと思うよ。…じゃから、私はやっぱり杖でエエと思うとるんじゃ……」
統計によると、昨年一年間の自殺者総数は約3万人とか。また全国の「引きこもり」の若者の数は50万人から100万人と言われています。私はこの数の多さに驚くのですが、それは不安定な人をチョッと支える杖が、圧倒的に不足していることでもあると思うのです。
杖は「倒れる前の杖」として用いられるときこそ役に立ちます。…すなわち杖は、躓き、そして倒れようとする瞬間に、バランスを取り戻すのに役立つのです。いったん崖から滑落した人を救助するのは大変なことです。その場合は、よほどの専門的な知識や技術がなければとうてい救えないことでしょう。
…しかし、崖から落ちる前に、すなわちバランスを崩しそうになったとき、ほんの少し支える杖の役割は誰にでもできるはずなのです。…にもかかわらず、この圧倒的な杖不足は、なぜ生じたのでしょうか?
私は、その最も大きな原因を、社会全体が目に見える数字や業績を求めているところにあるとにらんでいます。そのような社会では、すぐに捨てられる杖の価値など誰の目にも止まらないでしょう。…まさに、「たかが杖」なのです。
「されど杖」……あなたは、その貴重な杖として、目には見えないけれども本当に大切なものを大切にして生きてこられたのですね。ありがとう」
照れ屋の私は、……その言葉をついつい呑み込んでしまったけれど、心の中では何度もそう繰り返しながら、その先生を見送ったものです。
学校カウンセラー 森口 章
(岡山県立西大寺高校相談室便り 2003年3月)